石巻では、車を運転中に人にぶつかった気がするという通報が多すぎて、通行止めになった道路もあると聞いた。まるで都市伝説のような恐怖体験だが、当時はこんな話は掃いて捨てるほどあったのである。(2)

  • 2018.01.03 Wednesday
  • 00:42

 

 

『哀史 三陸大津波』  歴史の教訓に学ぶ

山下文男     河出書房新社  2011/6/17

 

 

 

繰り返される『大量死』の恐怖  「東日本大津波」を体験して

・すぐる3月11日(2011年)の東日本大津波は、死者2万人以上という過去の三陸津波史の中でも最大級の巨大津波であったことを示している。

 

「三陸海岸は日本一はおろか、世界一の津波常習海岸」とまでいわれた恐怖の津波海岸。

 

 こうした難しい地域事情の中で、実際には観光への否定的影響を考え過ぎて住民への津波防災教育を中途半端、乃至は軽視してきたことが大被害の背景としてまず問題になる。

 岩手県の場合、これには誰よりも県当局と行政に責任がある。このことを率直に反省し、腰を据えて防災教育に取り組まなければ、将来、またも同様のことを繰り返すことになりかねないと私は心配している。

 

・三陸津波史の特徴は、強烈なパワーによる大量死と遺体の海の藻屑化、そして「体験の風化に伴う悲劇の繰り返し」だと言われつづけてきた。

 

・今回も、互いに助けあおうとしての共倒れ、津波のスピードと引き潮の猛威を無視した逃げ遅れ、一度逃げたのに物欲のため家に戻って折角の命を失ったケース(私の親戚などそのため二人も溺死している)等々、明治の津波や昭和の津波の後で数え切れないほど体験した悲劇がまるで新しいことでもあったかのように住民たちによって語られ、連日紙面を埋めている。

 今回こそ、こうした風化現象にはっきりとした歯止めをかけなければならない。

 

<哀史 三陸大津波>

<「津浪常習海岸」の「宿命」>

・三陸沿岸一帯を襲った明治以降の初めの大津波は、三陸沖を波源とする明治29年(1896)6月15日の大津波であった。被害数は文献によって異なるが、比較的実数に近いと思われるものによると、死者は岩手県1万8158人、宮城県3387人、青森県343人、合計2万1888人。流出、倒壊、半壊戸数も三県で8200余戸に及んだ。

 

・次のものは、それから37年後の昭和8年(1933)3月3日の大津波で、前と同様、波源は三陸沖、この時も岩手県で2658人、宮城県で307人、青森県30人、合計2995人が死亡し、三県で約6000戸が流出・倒壊した。

 

・この間、明治30年(1897)8月をはじめ数度にわたる小津波があったと記録されているし、昭和8年の大津波後27年を経過した戦後、昭和35年(1960)5月24日には、今度は遠く太平洋を隔てた地球の裏側の南米チリ沖を波源とする、いわゆる「チリ津波」に襲われている。この時も岩手県で61人、宮城県で54人、青森県で3人、福島県で4人、合計122人が死亡し、4000余戸が流出あるいは全・半壊した。

 

「三陸沿岸地方は古来大津波に襲われることが頻繁」で、貞観11年(869)以来17回も津波に襲われている。これによると平均して60年余に一回襲われている計算になる。

 

・1600年から1970年までの370年間の津波を専門的な方法で分析すると「三陸沖では35年周期」が顕著であると指摘している。

 

実に三陸の太平洋沿岸は津浪襲来の常習地として日本一はおろか、世界一なのである。

 

<狂瀾怒濤一瀉千里の勢い>

しかも、津波の波高は、低いところでも2〜3メートル、8〜10メートルは普通の方で、なかには20メートル〜30メートルと、まるで今日の7階建てー10階建てビルのような高さの波であった。「山のような波」だった、と表現されているのも、あながち誇張とはいえない。

 

 

 

『松下幸之助はなぜ、松下政経塾をつくったのか』

江口克彦    WAVE出版   2010/6/20

 

 

 

個性・持ち味を生かす

・結論を申せば、松下幸之助は職種を増やすことを考慮した政治をおこなうことであり、「お互いの欲望が適正に満たされる社会」が政治の目指す姿だと考えていたようだ。

 

赤字国債の発行に危機感

・それでなくとも国費が膨大に膨れあがっている。戦前と比べるとそれは一目瞭然であり、物価は約1000倍、賃金は1300倍であるのに対し、国費だけが13000倍になっており、一桁違っている。「おかしい」というのが松下幸之助の直感である。

 

<なぜ政府に政治研究所がないのか

・今政治は何といっても一番大事です。しかし、それだけ大事なのに政府に政治を研究している機関がないのです。

 

・しかし、政府直轄の政治研究所はないのです。これが元々間違っています。自民党にしても与党として30年近く政権を担当し、あれだけの活動をしているのですから、専属の研究所があってもいいと思うのです。各議員の方々の体験からくるところの感覚で政治をやっておられるわけです。そういうところに一つの弱さがあると思います。

 

・このかってない非常時をかってない絶好のチャンスとするには、一にかかってお互いが「国難こそ絶好のチャンスだ」とはっきりと認識するかどうかである。

 

<政治が日本の繁栄をつぶす>

<政治の要諦とは何か>

農業にたずさわる多くの人たちが食べることだけが精一杯の貧しい生活状態にあると仄聞している。農民自身も生産方法の改善に努めねばならないが、それ以上になぜ蓄積できないのか、また貧困に甘んじなければならないのかを追及し、その原因を糾していくのが、政治家の責任ではなかろうか。こうした政治の点に政治の貧困を感じていた。

 

<政経塾設立への5つの理念>

1、「百花繚乱の社会」を実現する政治をおこなうべきであるというものである。

2、「人間重視の社会」を実現する政治をすべきだということである。

3、「政治の生産性の高い社会」の実現を考え求めていた。

4、「道義道徳の高い社会」を実現する政治である。

5、最後に一つだけ加えれば「志の社会」の実現ということになるだろう。

 

採用基準は運と愛嬌

<研修の基本方針>

 

1、「自修自得」

2、「切磋琢磨」

3、「万差億別

4、「徳知体の三位一体研修」

 

政治がしっかりしなければ、国民は路頭に迷いかねない。国民の生活を支え、国民の幸不幸を左右する政治が今の姿ではとても安心しておれない。

 

<当面の実現10目標>

・新党の組織、党則を構築する一方、活動方針として「当面の実現10目標」を掲げた。

 

1、所得税一律5割減税の実施

2、建設国債の発行

3、無税国家、収益分配国家の実現

4、 新国土創成事業

5、政治の生産性の向上

6、日本的民主主義の確立

7、多様な人間教育の実施

8、政治家及び官吏の優遇

9、生きがいを高める社会の実現

10、国際社会への真の寄与貢献

 

 

 

『未来を透視する』   ジョー・マクモニーグル

ソフトバンク・クリエイティブ    2006年12月26日

 

 

 

<日本の自然災害>

2010年、長野で大きな地震が起きる

透視結果を見てもうろたえず、注意程度にとらえてほしい。ただし、最悪の事態に備えておいて、何も起こらないことを願おう。こと天災に関しては、透視は間違っているほうがありがたい。

 

<今後、日本で発生する大地震>

 

2007年  高槻市  震度6

2008年  伊勢崎市 震度6

2010年  長野市  震度7

2012年  伊丹市  震度6

 

2018年  東京都  震度6

2020年  市川市  震度6

2037年  鈴鹿市  震度7

 

・噴火や地震にともなって海底では地盤の隆起や沈降が起きる。そして、膨大な量の海水が突然動きだし、衝撃波となって陸地の海外線へと進行する。

 

遠洋ではあまり目立つ動きではないが、浅瀬に入ると、衝撃波は巨大な津波となって陸地を襲い、都市部などを徹底的に破壊してしまう(波の高さはときには30メートル以上になることもある)

 

・内陸へと押し寄せる力がピークに達すると、今度は海に戻り始め、残された街の残骸を一切合財引きずりこんでいく。警告もなしに、突然襲ってくれば被害はとりわけ甚大となる。

 

幸い日本には、優良な早期警戒システムがあるのだが、海底地震が発生して警報が発令されてから、津波が押し寄せる時間は、残念ながらどんどん短くなっている。

 

<日本を襲う津波>

 

2008年夏   11メートル

2010年晩夏  13メートル

 

2018年秋   11メートル

2025年夏   17メートル

2038年初夏  15メートル

2067年夏   21メートル

 

日本は津波による大きな被害を受けるだろう(なお、波の高さが10メートル以上に及ぶものだけに限定している)。北海道の北部沿岸の都市部は特に津波に弱い。徳島市、和歌山市、浜松市、鈴鹿市、新潟市、石巻市も同様である。このほかにも津波に無防備な小都市は数多くある。

 

<土地>

・気象変動とともに、日本の土地問題は悪化しはじめる。沿岸部での海面上昇と、暴風雨の際に発生する大波によって、低地の村落と小都市の生活が脅かされるようになる。堤防や防壁といった手段は効力を発揮しないため、2012年から2015年のあたりまでに多くの人が転居を余儀なくされるだろう。

 

 

 

『口語訳  遠野物語』

柳田國男  河出書房出版社   1992年7

 

 

 

<『遠野物語』>

・『遠野物語』は、1916(明治43)年に出版された日本民俗学の誕生を告げる記念碑的な本。

 

<魂の行方>

・土淵村の助役 北川清という人の家は、字火石(あざひいし)にあります。代々山伏で祖父は正福院といい、学者で著作も多く、村のために尽したんです。

 

・その清の弟で福二という人は、海岸の田の浜へ、聟に行きましたが、先年(明治29年)の大津波にあい、妻と子どもを失いました。その後は、生き残った二人の子供とともに、元の屋敷あとに小屋を作り、一年ばかりそこにおりました。

 

・それは夏の初め、月夜の晩のことでした。福二は、便所に起きましたが、便所は遠く離れたところにあり、そこまで行く道は、波の打ち寄せるなぎさです。

 

・霧の一面に広がる夜でしたが、その霧の中から男女の二人連れが近づいて来ました。見ると女は、たしかに亡くなった自分の妻です。福二は思わず、その跡をつけて、はるばる船越村へ行く岬の、洞穴のあたりまで追いました。

 

・そこで妻の名を呼びますと、女は、ふり返ってにこっと笑いました。男のほうを見ますと、これも同じ里の者で、津波の難にあって死んだ人です。なんでも自分が聟に入る前、互いに深く心を通わせていたと聞いていた男です。

 

・「いまは、この人と夫婦になっています」と、女が言うものですから、「子どもはかわいくないのか」と言いますと、女は、少し顔色を変え、泣きだしてしまいました。

 

・死んだ人と話をしているようには思えず、現実のようで悲しく、情なくなりました。うなだれて足元に目を落としているうちに、その男女は再び足早にそこから立ちのき、小浦へ行く道の山陰をめぐって、見えなくなってしまいました。

 

・少し追いかけてもみましたが(相手は死んだ人なのに)と気づいてやめました。それでも、夜明けまで、道に立っていろいろと考え、朝になってからやっと小屋に帰りました。福二はその後もしばらくの間、悩み苦しんだということです。

 

(明治29年の大津波(明治三陸地震))

・明治29年6月15日(旧暦5月5日)夜8時ごろ、岩手県を中心とする三陸沿岸を襲った大津波のことです。波高は、38.2メートルを記録し、溺死者は2万2千人といわれ、最大級の津波でした。とくに、大槌町では、日清戦争の凱旋記念花火大会が行われていて、一瞬のうちに全滅という惨状だったといいます。

 

<山田の蜃気楼>

・海岸の山田では、毎年蜃気楼が見えます。いつも外国の景色だということです。それは、見たこともない都会のようです。道路をりっぱな馬車がひっきりなしに通り、人の往来もびっくりするほど多いそうです。家の形など毎年少しも違いがないということです。

 

 

 


■■■ 私が思うこと、聞いたこと、考えること ■■■

 

東日本大震災後の被災地での幽霊話は豊富であったと語られています。被災者が、さまざまな霊的な体験をしたようです。被災地の不思議な体験では、夢や携帯電話に関わるものが多いそうです。現代的なオカルト的な話のようです。これらの話も幻覚や幻聴といった話で片づけられることもできますが、その量的な面では無視できないと指摘されています。被災地の「幽霊話」や「霊的な体験」は本になり出版されています。東日本大震災のように一度に多くの人が死亡する場所では、人間の魂を救いあげるために多くの天使が集結すると語られています。これらは昼間の白っぽい幽霊のようなものですが、夢の中で「亡くなった家族」と遭遇する体験も多いといわれます。You Tubeで「東日本大震災」の動画を見ていますと、ヘリコプターからの上空からのビデオに「数体の白いものが空中を動いている」のが見れました。それらは、人間の幽霊体か天使たちのものだったのかもしれません。東日本大震災のように同時に多数の人命が失われた場合、人間死後の世界である「幽界」や「霊界」とこの世が繋がるのかもしれません。そこで、様々な幽霊話や霊的な体験が起こってくるのかもしれません。東日本大震災は、とにかく非常に多くの人々が体感した大地震だったと語られています。

 

映像の時代」ですので、ビデオや監視カメラに「幽霊のようなもの」が多く映るようになりました。もちろん、コンピュータグラフィックス(CG)のものやフェイク(偽)・ニュースもあると思いますが。You Tubeではさまざまな不思議な動画が見られるといわれます。

 

・2016年の「熊本地震」も「想定外」のことが多かったようで、避難者の救援活動がスムーズにいっていなかったようです。やはりトイレに困っている人々が多かったそうです。被災地では「トイレが万病の元」ともいわれているそうです。狭い車の中で夜を過ごす人も多かったので、エコノミー症候群も増えているようです。全国の被災者の方々に、お見舞い申し上げます。早く、被災地の人々も通常の生活に戻れると良いのですが。東日本大震災に関しては、幽霊話が豊富に語られているようです。『遠野物語』にも大槌町の幽霊話が載っています。ちなみに、私たち一般人は、「風俗嬢」の実態についてもよく知りません。「女性が働く必要のない社会」のベーシックインカムは、へりコプターマネーでユートピアで財源のない夢の話だそうです。ベーシック・インカムも最近では、諸外国や有識者の間では検討されているようです。

 

You Tubeで東日本大震災に動画を見てみますと、奇妙な動画を見ました。へりコプターからの動画だと思いますが、昼間なのに白い霊魂の様な幽霊が数体一緒に飛び回っているのが見えました。一時に大量の死者がでますと、多くの天使たちが集まり、死者の霊体を案内するといわれます。天使か死者の霊体が白く見えたのかもしれません。幽霊現象もある意味では宇宙人(神々や天使)の異次元現象と理解できるようです。目に見えない異次元世界の天使のような宇宙人は、この世にもさまざまな形態で関与してくるといわれます。「遥かに進化した高次元の高等知性体・異星人は、人間の肉体や精神体に憑依するので誰も識別できない」といわれます。「はるかに進化した宇宙人が人間の精神体に侵入してくる時代だ」そうです。ところで東日本大震災でも失政が問題とされたようです。政府の「失政」も増えているそうで驚きます。失政を厳しく追及する国民の関心が欠けているのかもしれません。宇宙人情報を公開すると主権が危うくなるともいわれます。

 

東日本大震災は「1000年に一度の『天災』ではなく100年に一度の『人災』であった」のでしょうか。「県庁の役人たちは何をしていたのだろうか?」という評判が巷では囁かれていたそうです。事前の対策も欠陥があり、被害を拡大したようです。失政が、残念ながら増えているようです。「失政」について調べてみると驚くことが多いのかも知れません。三菱自動車の燃費の数字の改ざん問題も、大企業の話で驚きます。さまざまな社会の部門で劣化が進んでいるようで、背筋が寒くなります。

 

・警鐘の意味を込めてこのブログも<UFOアガルタのシャンバラ 日本は津波による大きな被害を受けるだろう>という名称を副題に加えました。世界中の自然災害の予想は、昔から「予言」や「預言」、「未来透視」という形で伝わっています。しかし、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」というように「多くの予言は、当たらなくなる」という結果になるようです。多くの予言者が、笑われて無視されてきました。なぜ、「予言」が当たらなくなるのかといいますと、「“あの世”が、パラレル・ワールドで、常に“この世”と相互作用があり、変動していくからだ」そうです。あの世とこの世が交錯する体験は誰でもが、無意識的にかまたは意識的にも、経験しているのかもしれません。「あの世」の動きが時間を経て「この世」に起こってくるともいわれます。

 

・『未来を透視する』という本でマクモニーグルはさまざまな未来透視をしています。そしてマクモニーグルの未来透視に「23世紀と24世紀における2度の大戦で人類の人口が6分の1に大激減する」というのがあります。生物化学兵器は「貧者の核兵器」といわれていますが、その大戦に相当使われるようです。「あの世」も私たち一般人には、訳の分からない奇説だそうです。しかし、「霊界ははるか遠いところにあるのではなく地上1メートルのところにある」そうです。人間の死後の世界、幽界や霊界は、割合信じる人が多いようです。20世紀の米ソの対立による「第3次世界大戦」の予言は、全て誤りとなり、その種類の本は店頭から消えてしまいました。またそろそろ、米中核戦争による第3次世界大戦の本が出てきだしました。「米中も南シナ海で軍事衝突するほどにはいかないだろう」と大多数の有識者が見ているようです。と同時に米中間のサイバー戦争が懸念されています。また北朝鮮の核兵器によるリスクも懸念されています。イルミナティカードの予言の話も荒唐無稽、奇妙奇天烈、支離滅裂、眉唾物で疑念がわきます。しかしながら、総務省と地方自治体の管轄の「郷土防衛隊」の創設が必要だといわれます。良識の国会の「ノーシェルター政策」は、「敵の一番の弱点を攻撃する核攻撃を招き寄せる」といわれます。良識の国会の「ノーシェルター政策」は、一般国民が恥をかくといわれます。

 

・amazonに「東日本大震災」と打ち込みますと11401件が検索されます。「地震・津波」と入力しますと2164件が検索できます。これらの数字は東日本大震災の衝撃の大きさを物語るものと思われます。東京にいた人々も激しく揺れた記憶とその日のことが、いまだに鮮明です。あたかも日本の全国の人びとが感じたほどの、地震の強さでした。東日本大震災の責任問題も日本的な対応が限界だそうです。熊本地震の予想外の大きさで、これらの大地震が今後起こり、不気味な南海トラフ巨大地震津波に繋がっていくという地震学者の説もあるようです。

 

・被災地では様々な復興計画が作られ検討されたようです。防潮堤の計画も様々な専門家の検討がなされているそうですが、防潮堤の高さをめぐっていろいろと対立があるようです。東日本大震災の惨状をみますと「県庁の役人や地震研究所のスタッフがしっかりと事前に過去の津波の被害範囲を認識して、住民保護のためにしっかりとした防災計画をつくり、予算を確保しておれば」という思いを国民の大多数がしたようです。また「明治、昭和と2度も大津波で被災しているのに、防災対策が甘かったのではないのか」と言う声も多いそうです。3階建ての避難センターに逃込んでも溺死したのではやりきれませんでしょう。10メートルの津波が何度も到来していたのに、津波の基準を5メートルにして、10メートルの堤防を作り、東日本大震災により大打撃を受けたといわれます。

 

「高台移転」とかの抜本対策も土地の確保の問題がでてきていたようです。「高台移転」について思い出すのは、松下幸之助の「新国土創成論」です。土地が不足する日本では海を埋め立てて土地を増やせという主張です。限られた予算、増えない税収、十分でない福祉予算を削る財政赤字では、大規模な長期計画は無理でしょうか。オリンピックは確実な期日がありますが、首都直下大地震津波と南海トラフ巨大地震津波は、起きる確率が非常に高いそうですが、期日は不明だそうです。「天災は忘れたころにやって来る」ようです。首都直下大地震津波と南海トラフ巨大地震津波の到来の確率が非常に高いことは、東日本大震災により庶民の常識となりました。地震保険も今後、増えていくでしょう。

 

・政治の季節になりましたが、選挙に関してはさまざまな見解が述べられています。既に松下政経塾の卒塾者が総理大臣になりましたので松下幸之助の政治哲学、政治遺産が注目されたようです。成功した実業家、事業経営者としての松下幸之助の限界と飛躍・志が窺われます。「経営の神様」であったとともに「新国土創成論」にも見られるように慧眼があり「政治の神様」だったのかもしれません。松下幸之助は、当時の政治に絶望して、松下政経塾を、私財を投じて設立したといわれます。政治家は選挙民の対応に追われて、勉強ができないそうです。いつまでも「政治が遅れている」ということでは複雑化する社会問題に対応できないでしょう。「経済研究所」は多いのですが、詳しく知りませんが、政府の「政治研究所」がないのはなぜでしょうか。「昔から政治が一番遅れている。票の請負業のようなもの」といわれます。困っている人も増えており、単に政治の貧困としては片づけられないそうです。

 

・社会の遅れた面、非近代性、後進性、頭の古い面が予想以上に増えてきています。改革の速度も大変遅いようです。本当に優れた官僚や政治家が登用されなかったそうです。女性の眼から見ると「政治や経済の後進性」を痛切に感じることでしょうか。「女性の登用も先進国とはいえない」そうです。「日本は先進国だろうか」という声も街中では増えてきているようです。限られた予算、限られた処遇、増えない税収、十分でない福祉予算を削る財政赤字ということで、消費税も10%どころか将来は20〜30%も上げられる懸念もあるようです。

 

・amazonで「松下幸之助」を検索すると1548件が分かります。それだけに「松下教の信者」も多いようで、私たち一般人は、詳しくは知りませんが、「経営の神様」については多くの研究者がいるようです。2016年には「田中角栄氏」が注目を集め、関連本が売れているようです。特に『天才』(石原慎太郎)の本が読まれていたといわれます。Amazonに「田中角栄」といれますと1008件の書籍が出てきます。

 

・戦後の日本政治と言うのは、マッカーサー元帥の占領軍の時代から「現代のグローバル・スタンダードという戦勝国・米国の政治指導に自然に従うようになっている」そうです。さまざまな原因として考えられることは、「ヨーロッパの王族や貴族、米国の支配階層を統括するといわれているイルミナティなどのフリーメーソン王国(米国)の支配が敗戦後の日本にも当然、長きにわたって秘密裏に及んでいるのでしょうか。自民党がフリーメーソン的な組織と言われますが、どうなのでしょうか?自民党が選挙に強いのもフリーメーソン的な話のようです。長い歴史のある組織的にも固まっている政党だからでしょうか。フリーメーソン結社はこの大地が創出されるよりずっと前から、さまざまな太陽系をめぐって、存在していたのであると語られています。フリーメーソンは、当然のことながら、「世襲」を前提にしているようです。

 

「過密日本の狭い国土が諸悪の根源である」という認識で松下幸之助は、国土の創成を主張し「新国土創成事業」を政策としました。インターネット情報によると「大都市の過密問題が地価の高騰や大気汚染を引き起すようになった。特に日本の食糧自給率は先進国中最低の水準にとどまっている。こうした狭い国土の制約を解消し、食糧自給の道を講じるための国家100年、いや1000年の発展を考えていく大きな構想ではないか」。「松下幸之助は、この狭い国土の弊害、諸悪の根源を断ち切るために、昭和51年(1976)、『新国土創成論』を発表、「新国土創成」を新しい国家目標とし、国家事業として実現していくべきであると唱えたのである」とのこと。

 

・「『新国土創成論』の内容は、簡単にいえば、国土の約70%を占める山岳森林地帯のうち、20%を2世紀にわたって開発整備して、これを有効可住国土とし、併せて山岳森林地帯をならした分の土砂で海を埋めたてることで、合計して15万平方キロメートルの有効可住国土を新たに生み出し、現在の有効可住国土(11.3万平方キロメートル)を倍増させ、住みよい理想的な国土にしていこうというものである」とのこと。

 

「新国土創成論」を作った当時の松下幸之助の頭の中には「明治と昭和の三陸津波」の惨状の対策はなかったかもしれませんが、現代こそこのような雄大な国家計画が必要となりましょうか。

 

・日本国政府直轄の「政治経済研究所」を作れば叡智を結集した、誰でも納得できる権威ある政策が作れるのではないでしょうか。思いつきではなく国家経営の実務に精通した実務担当者が作る政策では、国論が2分されることはないでしょう。官僚組織や民間組織から選抜して政府直轄の「政治経済研究所」をつくり、国家政策を検討していくべきでしょう。国家経営の実務に精通したベスト&ブライテストのテクノクラートの英知を結集した「国家改造計画」が求められているそうです。東京オリンピック・パラリンピックの準備も大事です。が、それ以上に起こる確率の高い首都直下大地震津波と南海トラフ巨大地震津波の対策も喫緊です。

 

・「TPPで国論を2分する必要もなく松下幸之助のいうように、明治政府からの伝統である常に農民の生活を中心に考えるべきである。農民に無理な要求をすべきではない」、「TPPは開国の起爆剤になるどころか自爆剤になる」ともいわれ国論が2分されました。が、大筋合意ができたようです。農業対策は具体的には決まってきているのでしょう。「補助金のバラマキ」に終わるのかもしれません。「攻めの農業」は、多くの農民にとっては難しいようです。「社会の弱者のすべてを助けることはできない」ともいわれます。米国ではトランプ大統領がTPPからの脱退を宣言しました。「自由貿易主義もいいが、食糧の安全保障も考えるべきだ」と指摘されています。

 

・「松下幸之助のいうように国家への寄与貢献を考えて、政治が一番大事なので、政治家及び官吏を優遇すべきだ」、「政府直轄の政治経済研究所が農家とビジネス社会の実態を知悉・把握し政策を作るべきだ」そうです。議員の報酬を「仕事の対価」を考えて2倍にすべきなのか、半分にすべきなのか、有識者間には議論があるといわれます。議員の近未来の姿は欧米のようにボランティア議員の流れだといわれます「特に外交・防衛政策は与野党一致して、対外的に統一的なものであるべきだ」そうです。政治経済も問題が山積みですが、今こそ国家100年の計をつくるべきでしょうか。国家目標をつくりシナリオをいくつも想定して、国民が分かりやすい説明が必要のようです。政府は当然ながら、さまざまな「中期計画」「長期計画」を作っていると思われます。

 

・東日本大震災から、7年経ちましたので、震災後の立て直しが進んでいるようです。被災者の日々の生活もめどが立ってきているようです。そして過去の欠陥のあった政策の検証がされて、反省がなされているようです。

 

さて「専門家の想定外の大津波」で壊滅的な約30兆円の被害と約3万人の死者がでた東日本大震災ですが、チリ地震の津波を基準にして作成された防災計画は役に立たなかったことは、非常に残念です。なぜ明治29年の大津波の40メートル(明治三陸地震)を基準にしなかったのでしょうか。昭和8年(1933年)の昭和三陸地震の教訓は生かされたのでしょうか。昭和三陸地震の際、津波が襲来した後の田老村は、家がほとんどない更地同然の姿となったそうです。

 

・建物の3階以上も超えてくる大津波ではたまりません。原発の津波の防災レベルも5メートルの津波基準で低かったので未曽有の国家危機となりました。放射能が東京まで飛んできたら大変な非常事態でした。東京の住民が避難する懸念もあったそうです。松下幸之助が「国土の狭さが諸悪の根源だ」と言ったことが思い出されます。過去において2度も10メートルの大津波が襲ったのですが、津波の基準を5メートルにして、10メートルの防潮堤を造って、東日本大震災で大きな被害を受けました。行政当局のずさんな政策が批判されているようです。

 

防災計画は日本の津波災害史上で最大の被害となった明治29年の大津波40メートル(明治三陸地震)を基準にすべきだったそうです。

 

・明治三陸津波の到達高は、全般的に10メートル程度、最大で38メートル。防潮堤の高さは、資金面から限られますが、避難基準に「明治29年の大津波(明治三陸地震)」のものを参考に適用すべきだったようです。「明治29年の大津波(明治三陸地震)」教訓は、一部の民間人の教訓にも活かされたようです。

 

・『遠野物語』には、海岸部の不思議な話も載っており、大槌町の幽霊話や山田における奇妙な外国のような都会の蜃気楼の伝承等があります。山田の都会の蜃気楼は何だったのでしょうか。

 

 

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・ブログ名称: UFOアガルタのシャンバラ

日本は津波による大きな被害をうけるだろう

・第2のブログ名称:UFOパラレル・ワールド

「神の国か?」「人類の原郷か?」 「天上のエルサレムか?」・・・・・・・・・

「パラレル・ワールドに住む宇宙人、天国に出入りし転生と憑依を自由に操るシリウス星人の殖民星が、地球か?」、「ネガティブのシリウス星人の地球支配があまりにも巧妙なので、しょっちゅう戦争が起こるのだろうか?」

「金髪碧眼のノルディックが住んでいたアガルタのシャン発表しましたバラ情報の集大成を目指す・・・・・・・・・・」「金星蛇人と火星霊人の戦争はその後どのように展開したのだろうか」
「日本民族の神話の原郷『高天原(たかまがはら)』は、『都市型の超巨大宇宙船』なのか!?」「平家がプレアデス星人の末裔で、源氏がオリオン星人の末裔なのか」
「小人族のグレイの母船に同乗する金髪碧眼のノルディックは、”悪魔の王””ルシファー”なのか?!」

「円盤は神人や異人、悪魔の乗り物なのか!?」「天使は神の秘密諜報員なのか」「神は最初のフリーメーソンなのか」

「UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象なのか。UFO問題とは、人間にとっての死の問題を解くことなのだろうか。UFOはフリーメーソンの創作なのか」

「全宇宙を創ったという“虹の神々”も地球に来ているのだろうか」

「イルミナティなどのフリーメーソン組織に入ると神に会えるのだろうか」「金星の神々は地球に到着するやいなや、イニシエーションのためのフリーメーソン本部を設けたのだろうか」

「国際連合の設立に動いたキリストの星、アプ星人とは」

「人は皆、記憶喪失の異星人だろうか」

「はるかに進化した天使のような宇宙人は、人間の守護霊や背後霊なのだろうか」

「セドナ上空に見えないエーテルのシティが滞空するのだろうか」

 

グーグルのブロガーにも書いています→UFOパラレル・ワールド

 

 

 

 

石巻では、車を運転中に人にぶつかった気がするという通報が多すぎて、通行止めになった道路もあると聞いた。まるで都市伝説のような恐怖体験だが、当時はこんな話は掃いて捨てるほどあったのである。(1)

  • 2018.01.03 Wednesday
  • 00:41

 

『魂でもいいから、そばにいて』

3・11後の霊体験を聞く

奥野修司   新潮社    2017/2/28

 

 

 

<旅立ちの準備>

・死者・行方不明者1万8千人余を出した東日本大震災。その被災地で、不思議な体験が語られていると聞いたのはいつのことだったのだろう。多くの人の胸に秘められながら、口から口へと伝えられてきたそれは、大切な「亡き人との再会」ともいえる体験だった。同時にそれは、亡き人から生者へのメッセージともいえた。

 津波で流されたはずの祖母が、あの朝、出かけたときの服装のままで縁側に座って微笑んでいた。夢の中であの人にハグされると体温まで伝わってきてうれしい。亡くなったあの人の形態に電話をしたら、あの人の声が聞こえてきた。悲しんでいたら、津波で逝ったあの子のおもちゃが音をたてて動いた……。

 

事実であるかもしれないし、事実でないかもしれないが、確実なのは、不思議な体験をした当事者にとって、それは「事実」であるということである。

 東日本大震災の2年後から、僕は毎月のように被災地に通いつづけた。なにやらそうしないといけないような気がして、まるで仕事にでも出かけるかのように通った。ボランティアではない。もちろん物見遊山ではない。それは霊体験ともいえる。きわめて不思議な体験をした人から話を聞くことだった。

 

 

お迎え率

・「お迎え率って知らねえだろ。うちの患者さんの42%がお迎えを経験してるんだ。お迎えを知らねえ医者は医者じゃねえよ

 

・今から千年以上も前に、天台宗の僧・源信を中心とした結社が比叡山にあった。彼らは亡くなっていく仲間の耳元で、今何が見えるかと囁き、末期の言葉を書き留めたという。死ぬ直前に極楽か地獄を見ているはずだから、最初に何を見たか、死に逝く人は看取る人に言い残すことを約束したのである。このとき何かを見たとすれば「お迎え」に違いない。千年も前からお迎えがあったなら、お迎えは特殊な現象ではなく、人が死んでいく過程で起こる自然現象と考えたほうがいいのではないか。そんな思いを、このとき僕は岡部さんとはじめて共有できたのだ。

 

お迎えの話に導かれるように耳に入ってきたのが被災地に「幽霊譚」だった。

 実際、僕が聞いた話にこんなものがある。たとえばタクシーの運転手だ。

古川駅(宮城県)から陸前高田(岩手県)の病院まで客を乗せたんだが、着いたところには土台しか残っていなかった。お客さん!と振り返ったら誰も乗っていなかったんだよ

 仙台のある内装業者は、一緒に食事をしたときにふっとこんな話を漏らした。

「震災の年の夏だったが、仮設住宅で夜遅くまで工事をしていたら、いきなり窓から知らない人がいっぱい覗いていた。そのとき頭の中に若い女性の声で「わたし、死んだのかしら」なんて聞こえた。驚いてあらためて窓を見たが、年寄りの幽霊ばっかりだった」。

 

・またある女子大生の話。

閖上大橋のあたりに行くと、高校時代にいつもそこで待ち合わせていた親友が立っているんです。でも、その子はお母さんと一緒に津波で流されたはずなんです

 ある婦人のこんな話もある。

「ある日、ピンポンと鳴ったのでドアを開けると、ずぶ濡れの女の人が立っていました。おかしいなと思ったんですが、着替えを貸してくださいというので、着替えを渡してドアを閉めたら、またピンポンと鳴った。玄関を開けると、今度は大勢の人が口々に、“着替えを!”と叫んでいた」

 石巻では、車を運転中に人にぶつかった気がするという通報が多すぎて、通行止めになった道路もあると聞いた。まるで都市伝説のような恐怖体験だが、当時はこんな話は掃いて捨てるほどあったのである。

「これはお迎えと同じだよ。きちんと聞き取りをしたほうがいいんだが」と、岡部さんはさりげなく僕の目を見て言う。

 お迎えは、僕の中で実体験としてあるが、霊体験となるとそうはいかない。当時の僕にすればUFOを調べろと言われているようなものだった。

 

「柳田國男が書いた『遠野物語』も、考えてみればお化けの物語だよ。ところが、第99話で柳田は、男が明治三陸地震の津波で死んだ妻と出会う話を書いているよな。妻が結婚する前に親しかった男と、あの世で一緒になっていたという話だ。なんでわざわざ男と一緒に亭主の前に出てくるのかわからんが、死んだ女房に逢ったのに、怖いとはどこにも書いていない。恐怖は関係ないんだ。つまり家族の霊に出合ったときは、知らない人の霊に出合うときの感情とはまったく違うということじゃないか?」

 沖縄戦のさなかに、北部のあるヤンバルという山中で逃げまどっているとき、先に戦死した兄の案内で九死に一生を得たといった霊的体験を沖縄で何度か聞いたことがある。それを語ってくれた老人は、一度も怖いと言わなかったことを僕は思い出した。

 

この人たちにとって此岸と彼岸にはたいして差がないのだ

・「石巻のあるばあさんが、近所の人から『あんたとこのおじいちゃんの霊が大街道(国道398号線)の十字路で出たそうよ』と聞いたそうだ。なんで私の前に出てくれないんだと思っただろうな、でもそんなことはおくびにも出さず、私もおじいちゃんに逢いたいって、毎晩その十字路に立っているんだそうだ」

 

<『待っている』『そこにも行かないよ』>

津波はリアス式の三陸に来るもの

・「今年(2016年)の正月明けでした。これからどう生きていけばいいのか悩んでいたときです。このとき娘はいなかったのですが、これまでと違ってはっきりとした像でした。夢の中で妻はこう言ったんです。

「いまは何もしてあげられないよ」

 そう言われたとき、あの世からそんな簡単に手助けはできないんだろうなと、私は夢の中で思っていました。

 

・「ええ、父も私もしゃべっています。父が出てくる夢は毎回同じでした。バス停とか船着き場とか電車のホームで、いつも乗り物を待っている夢なんです。父が待っているので私も一緒に待っていると、『まだ来ねえからいいんだ。おれはここで待ってる。おめえは先に行ってろ』と父は言うんです」

 

・「今でも忘れない不思議な出来事が起こったのはその頃です。東京に行く用事があったので、震災の年の7月3日に気仙沼のブティックで洋服を買っていました。4人ぐらいお客さんがいて、1人ずつ帰っていき、私も洋服を手にしてレジに向かったら、最後まで残っていた女性のお客さんから『どなたか亡くなりましたか』と声をかけられたんです。びっくりして振り向くと、『お父さんとお母さんでしょ? あなたに言いたいことがあるそうだから、ここで言ってもいい?』

 店の人が言うには、気仙沼で占いを職業にしている方で、女性雑誌にも出ているそうです。私はほとんど反射的に『はい』と返事をしていました。私は、その頃、左の腕が重いというか、肩こりでもない、筋肉痛でもない、なにか違和感があってので、原因がわかるかもしれないという気持ちがあって承諾したのだと思います。

「あなたは胃が弱いから胃の病気に気を付けろとお父さんが言ってます。お母さんは、ありがとうと言ってますよ」そこで号泣してしまいました。

 

・「父は港町でかまぼこ屋をしながら、船をかけたりしていました。ああ、船をかけるというのは船主になることです50年もかまぼこ屋をしながら、船主になりたくて、全財産を失ってしまいました。6航海のうち、黒字になったのは1回だけ。赤字で帰ってきても、船主は人件費や燃料費を支払わないといけないから、バクチのようなものです。それでもやってみたかったんでしょうね。市会議員も2期やって、今思えば好きなことをやってきた人でした。借金を抱えて全財産を失ったあと、実家はうちの叔母が肩代わりをして買い取り、下を駐車場にして、2階に管理人として住んでいました」

 

兄から届いたメール≪ありがとう≫

・被災地の不思議な体験で圧倒的に多いのが、亡くなった家族や恋人が夢にあらわれることである。それもリアルでカラーの夢が多い。中には4Kのように鮮明で、夢かうつつかわからないことがあると証言した方もいる。面白いのは、電波と霊体験に親和性があるのか、携帯電話にまつわる話が多いことだ。

 たとえば、のちに詳しく紹介するが、余震で家の中がめちゃくちゃになって暗闇の中で途方に暮れていたら、津波で亡くなった夫の携帯電話がいきなり煌々と光りだしたという証言。また、津波で逝った“兄”の声を聞きたいと思って電話をしたら、死んだはずの“兄”が電話に出たという話。

 

・「朝8時半でした。役場で死亡届を書いているときにメールを知らせる音が鳴ったんです。従妹が『電話だよ』と言ったので、『これはメールだから大丈夫』と言って、死亡届を書き終えて提出しました。そのあと受付のカウンターでメールを開いたら、亡くなった兄からだったんです。

≪ありがとう≫ひと言だけそう書かれていました。

 

・余談がある。震災の年の夏、陸前高田にボランティアでオガミサマがやってきたという。オガミサマというのは、沖縄のユタや恐山のイタコに似て、「口寄せ」や「仏降ろし」をする霊媒師のことである。沖縄では「ユタ買い」という言葉があるほど、日常生活に密着しているが、かつて東北にもオガミサマは生活の一部としてあった。たとえば誰かが亡くなったとすると、仏教式の葬儀を執り行なう前にオガミサマを呼び、亡くなった人の魂を降ろしてきて、口寄せで死者とコミュニケーションをとったそうである。オガミサマは東北地方の「陰の文化」としてあったのだ。

 

・常子さんがこのオガミサマに兄のことをたずねると、口寄せでこう言ったそうだ。

「おれ、死んだんだな。でもよかった。これでよかったんだ。みんなに、自分が動けなくなって寝たきりになる姿を見せたくなかったし、これでよかったんだ」

 オガミサマを信じない人にはたわごとでしかないが、信じる人にはあの世に繋げるかけがえのない言葉である。死者とコミュニケーションをとれることは、遺された人にとって最高のグリーフケア(身近な人の死別を経験して悲嘆に暮れる人を支援すること)なのだと思う

 

「ママ、笑って」―—おもちゃを動かす3歳児

東日本大震災における宮城県内の死者・行方不明者は1万2千人弱を数えるが、このうち3977人と最大の人的被害を出した町が石巻市である。

 

・大切な人との別れは、それがどんな死であっても突然死である。とりわけ津波で亡くなるような場合、死を覚悟する時間がなかっただけに強い悲しみが残る。その悲しみは、幾年を経ても消えることがない。もういちど逢いたい、もういちどあの人の笑顔が見たい、ずっと一緒にいたい、そんな強い思いに引かれて、亡くなったあの人があらわれる。生きていたときの姿のままで、あるいは音になって、あるいは夢の中で、そのあらわれ方はさまざまだが、その刹那、大切なあの人は遺された人の心の中でよみがえり、死者と生きていることを実感するのだろう。

 後日、由理さんから電話があり、夜中に康ちゃんがボール遊びをしているのか、黄色いボールが動くんですと笑った。

 

神社が好きだったわが子の跫音(あしおと)

・今回の旅のきっかけは、『遠野物語』だったと思う。あの中に地震の後の霊体験はたった一話しかなかったが、もしも明治三陸地震の直後だったら、柳田國男はもっとたくさんの体験談を聞いていたのではないだろうかと思ったのだ。

 

・恵子さんと先に登場した由理さんには共通する点がたくさんある。いや、二人に共通するのではなく、大切な人を喪ったすべての遺族に共通するのかもしれない。たとえば由理さんが、あの子がそばにいると思うと頑張れると言ったが、恵子さんもそうだった。

「迎えにも行ってあげられなかったし、助けてもあげられなかったのに、天井を走ったりして、私たちのそばにいてくれたんだと思うと、頑張らなきゃと思う」

 

<霊になっても『抱いてほしかった』>

・秀子さんが不思議な体験をしたのは夫の遺体が見つかる前日だった。

「今日は駄目だったけども、明日はきっと見つけてやっからね、と思って2階に上がったときでした。なんだか気になったから、ひょいと下を見たら、ニコッと笑ったひょいひょいと2回あらわれたのが見えたんです。それも鉛筆で描いたような顔でね。そこは支えるものがいから、人が立てるようなところじゃないの。でも、すぐお父さんだとわかったわ。どうしてわかったのかって?私のお父さんだから、雰囲気でわかるわ。だから『あっ、来たのね』って声に出したの。義姉も一緒に住んでいたので、念のために『義姉さん、お父さんの顔見た?』って訊いたけど、もちろん知らないって言ったわ。

 2回目は夕方でした。洗濯物を取り入れていたんだけど、ふと見たら白いドアの前に黒い人型の影がぽわっと立っているんです。ゆらゆら動く影を見て、ものすごい鳥肌が立ちました。『お父さん、そばまで来ているんだね。それとも誰かに見つけてもらったかな』って声をかけました」

 

<枕元に立った夫からの言葉

・「お父さんは大船渡の出で、あの日はよく行く大船渡のお寺でお祓いをしてもらって帰ったんだけど、寒くてストーブを焚いた記憶があるからお盆ではないよね。あれは夢だったのか、それともお父さんの霊だったのか、いまだによくわからないんだね。私が布団に入っていたから、夜だったことは間違いないけど……、ああ、時計は一時だったね。目が醒めると、白い衣装を頭からかぶったようなお父さんがふわっとやってきて、

『心配したから来たんだぁ』と私に言ったんです。顔は暗くてよくわからなかったのですが、格好はお父さんだし、声も間違いなくお父さんなんです。それだけ言うと、誰だかわからない、同じ衣装を着た別の人が、お父さんを抱きかかえるようにしてドアからすーっと消えていきました。お父さんといえば、ふわふわと風船のように浮かんでいて、まるで風に流されるように離れていくんだね。あれは突然やってきて、突然いなくなった感じでした。お父さんはよく夢に出てきたけど、あれは夢とはちょっと違ったね」

 

・あれは遺体が見つかってから2ヵ月経った5月20日……、ああ、発見された日と同じだねぇ……。あの頃の私たちはまだ親戚の家の納屋に避難していましたが、仕事も始まってようやく気持ちも落ち着いてきました。その日は平日でしたね。世話になったおじちゃんだから、なんとなく電話したくなったの。一人でぼんやりしていると、ああ、おじちゃん、どうしているかな、逢いたいなあと思って、軽い気持ちで携帯で電話したんです。

 ブルルルルって鳴ったかと思ったら、突然電話に出たんですよ。

「はい、はい、はい」そう言って3回、返事をしました。「エエエッ!」

 声は克夫おじちゃんとそっくりです。いやいや、克夫おじちゃんに間違いないです。本当に嘘じゃないんですよ。自分で電話して驚くのもおかしいですが、あのときはもうびっくりするやら、信じられないやらで、怖くなってすぐ携帯を切ったんです。

《誰? なんでおじちゃんが出るの

 ちょっとパニック状態でした。そしてしばらくしたら、というより数秒後でしたが、克夫おじちゃんの携帯から折り返しの電話があったんです。私の携帯に(番号登録した)『伊東克夫』って出たものだから、もう背筋が寒くなって、さすがに出られません。ベルが鳴り終わると、すぐにおじちゃんの番号を削除しましたよ。

 

・「霊体験なんてこれまで信じたことがなかったのに、自分がその体験者になって、頭がおかしくなったんじゃないかと思っている人もいます。同じような体験をした人が他にもたくさんいるとわかったら、自分はヘンだと思わないですよね。そういうことが普通にしゃべれる社会になってほしいんです」

 とはいえ、困ったのは、これが“ノンフィクション”として成り立つのかどうかということだった。なにしろ、語ってもらっても、その話が事実かどうか検証できない。再現性もないし、客観的な検証もできない。どうやってそれを事実であると伝えるのか。

 

 

 

『創』   2016年5・6月号

『ドキュメント 雨宮革命  (雨宮処凛)』

 

 

 

「幽霊」と「風俗」。3・11から5年が経って見えてくるもの>

・一方、最近出版されている3・11をテーマとした書籍の中には、「5年」という時間が経ったからこそ、世に出すことができるようになったのだな、と感慨深い書籍もある。その中の一冊が『呼び覚まされる霊性の震災学 3・11生と死のはざまで』(新曜社)だ。

 東北学院大のゼミ生たちがフィールドワークを重ねて書いた卒論をまとめた一冊なのだが、その中には、震災後、宮城のタクシー運転手たちが経験した「幽霊現象」の話を追ったものがある。

 

 季節外れのコートに身を包んだ若い女性が告げた行き先に運転手が「あそこはほとんど更地ですが構いませんか」と尋ねると、「私は死んだんですか」と震える声で答え、振り向くと誰もいなかったという話や、やはり夏なのに厚手のコートを着た若い男性を載せたものの、到着した頃にはその姿が消えていたなどの話だ。

 

・このような「タクシーに乗る幽霊」に対しても、自らも身内を亡くした運転手たちは不思議と寛容だ。

 

「ちょっとした噂では聞いていたし、その時は“まあ、あってもおかしなことではない”と、“震災があったしなぁ”と思っていたけど、実際に自分が身をもってこの体験をするとは思っていなかったよ。さすがに驚いた。それでも、これからも手を挙げてタクシーを待っている人がいたら乗せるし、たとえまた同じようなことがあっても、途中で降ろしたりなんてことはしないよ」

 そう語るのは、津波で母を亡くしたドライバーだ。

「夢じゃない?」と思う人もいるだろうが、実際にメーターは切られ、記録は残る。不思議な現象は、事実上「無賃乗車」という扱いになっていることもある。

 

・さて、もう一冊、「5年経てばこういうことも出てくるだろうな」と妙に納得した本がある。それは『震災風俗嬢』(小野一光 太田出版)。帯にはこんな言葉が躍る。「東日本大震災からわずか1週間後に営業を再開させた風俗店があった。被災地の風俗嬢を5年にわたり取材した渾身のノンフィクション」

 本書を読み進めて驚かされるのは、3・11後、震災と津波と原発事故でメチャクチャな地で、風俗店はいつもより大忙しだったという事実だ。店によってはいつもの倍近い客が押し寄せたのだという。

 

・そう話した30代後半の男性は、子どもと妻と両親が津波に流されたのだという。妻は土に埋もれ、歯形の鑑定でやっと本人だとわかったということだった。

 一方で、風俗嬢たちも被災している。住んでいた街が津波に襲われるのを目撃した女の子もいれば、両親を亡くした女の子もいる。

 

・時間が経つにつれ、「3・11」を巡って、私たちの知らない側面が顔を覗かせるだろう。

 とにかく、あれから5年という月日が経った。あの時の、「言葉を失う」感覚を、一生忘れないでいようと思う。

 

 

 

『被災後を生きる――吉里吉里 大槌・釜石 奮闘記』 

竹沢尚一郎 中央公論新社   2013/1/10

 

 

 

<被災後の行動から理解されること、改善されるべきこと

<被災者の語りは何を示しているのか>

・被災の直後に大槌町の人びとがどのように行動したかの生々しい証言を追ってきた。そのうちいくつかの話は、本当に彼らが危機一髪のところで助かっていたことを示しており、聞いているうちに私たちも手に汗を握ったり、感動のあまり思わず涙ぐんでしまったりするなど、他ではとても聞けそうにない深い内容をもっていた。そのような話を率直にかつ長時間にわたって話してくれたことに対して、深く感謝したい。

 

・とはいっても、彼らの体験を再現するだけでは、これまでに書かれた多くの書物と変わりがない。彼らの話を整理していくことによって、被災直後の人びとの行動の特徴として何が明らかになったのか、また彼らがそのように行動した理由は何であったのかを、明確にしていく作業が求められているはずだ。さらに、彼らがそのように行動したのは、個人的な理由からなのか、それともそこには制度的な問題が背後にあったのか。後者であるとすれば、それは今後どのように改善ないし修正していくべきなのか。そこまで議論を深めていかないかぎり、今後もおなじことがくり返されるであろうことは目に見えている。それであっては、今回の地震と津波の教訓を今後に活かしていくこともできなければ、津波で亡くなった方々に対する冥福にもならないだろう。

 

そうした人びとの冷静さを可能にしたのは、三陸沿岸が過去から大きな津波をくり返して経験しており、そうした経験が年配者から語りつがれるなどして、非常時にどのように行動すべきかの情報があらかじめ刻印されていたためであろう。それに加えて、宮城県沖を震源とする巨大地震がくり返されていたことも忘れるべきではない。その意味で、情報が正確に提示され、広く共有されていたことが、今回の多くの人びとの沈着な行動の背景にあったと考えられるのだ。

 

にもかかわらず、以上の話が明らかにしているのは、多くの人びとが地震後ただちに避難行動をとったわけではないという事実だ。つね日頃から用心を重ねていた徳田さんでさえ、車で自宅から避難し、安全な場所に達するのに20分を要している。一方、他の多くの人の場合には、家のなかを整理したり重要書類を取り出したりするなどして、避難開始が遅れている。

 

地域的・地理的に見ると、吉里吉里の住民の多くが地震後すぐに避難を開始したのに対し、大槌町や安渡の人びとは避難が遅れる傾向にあった。

 

・また、大槌の町方では津波直後に出火し、プロパンガスが爆発するなどして大火災が生じたために、救助活動がほとんどできずに多くの人命が失われている。そのことは、町方の死者343名、行方不明者325名と、行方不明者の割合が多いことに反映されている。

 

・これは大槌町にかぎられるものではないが、情報に大きな混乱が生じていたことも今回の被災の特徴であった。地震直後の午後2時49分に気象庁は大津波警報を出したが、マグニチュード9.0というわが国では前例のない巨大地震であったために、地震計が振り切れるなどして正確な測定ができず、岩手県沿岸部の予測値を3メートルとして発表した。その後、午後3時14分には岩手県沿岸部の予測値を6メートルにあげたが、大槌町では停電でテレビが消え防災放送も機能しなくなったために、最初の数字だけを覚えている人がほとんどだ。また、津波が襲って沿岸部の市街地や集落がほぼ全壊状態になっていたことを、おなじ市町村でも内陸部に住む人は知っていなかったし、となりの市町村ではなおさらであった。そうした情報の混乱や欠如が、人びとの避難行動を遅らせ、救助活動を阻害させたであろうことは否定できまい。

 

・さらに、勤務中あるいは職務中であったために逃げ遅れて、津波に巻き込まれた人が多いのも今回の被災の特徴であった。海岸から300メートルほどしか離れていない海抜ゼロメートル地帯に建てられていた大槌町役場では、役場前の広場で対策本部会議を開こうとしていた町長や幹部職員が津波に巻き込まれて亡くなったことは、新聞報道等でよく知られている。しかしそれだけでなく、その時役場のなかでは他の職員が勤務しており、その多くが津波に巻き込まれて亡くなったり、あわやというところで助かったりしたことは、赤崎さんの話からも明らかだ。さらに、停電で操作できなくなった水門を手動で閉めようとして亡くなった消防団員や、避難者や避難の車両を誘導したり、歩くのが困難な方を救助しようとして水にさらわれた消防団員や自主防災組織の役員が多いことも、先の話のなかで多くの人が指摘していた。

 

・他にも今回の地震後の避難行動や被災の特徴といえるものがあるだろうが、私としては以上の点に注目して、これからの議論を進めていきたい。まず、それを一点一点整理しておく。

 

――過去に何度も津波が襲来した土地であり、今回も大地震と津波が生じることが十分に予告されていたにもかかわらず、避難行動が遅れる傾向があった。とりわけ高台に住んでいた人の多くが避難しなかったり、避難行動が遅れたりして、津波に巻き込まれて亡くなっている。

 

――車で避難した人が多く、徒歩で逃げたのは一部にとどまった。車で避難した人の一部は渋滞で停車しており、そのまま津波に巻き込まれて亡くなった人が大勢いる。

 

――大槌町では津波後すぐに火災が発生したために、直後の救助活動を十分におこなうことができず、死者・行方不明者の数が増大した。

 

――被災直後に停電が発生し、ほとんどの地域で災害放送や携帯電話が不通となったこともあり、情報が混乱して正確な情報が伝わらず、避難行動や緊急救助活動が阻害された。

 

――役場で勤務していた職員や、水門を閉めようとして亡くなった消防団員など、勤務中・職務中に津波に巻き込まれて命を落とした人が多かった。

 これらの点はいずれも防災上・基本的かつ致命的な点というべきだ。それゆえ、今後に予想される災害に備えて防災・減災を考えていくには、その一点一点について原因を究明し、対策を検討していくことが必要なはずだ。

 

<地震後の避難が遅れたのはなぜか

・以上のデータから何が理解できるのか。確実にいえることは、今回の地震がきわめて大規模であり、しかも三陸沿岸のような津波の常襲地帯で、大規模地震の到来が予告されていた土地であるにもかかわらず、多くの人が自宅から逃げずに亡くなっているということだ。理由はさまざまだろう。自宅が高台にあったために、ここまでは津波がこないと過信して巻き込まれたか。あるいは高齢その他の理由で、そもそも逃げることができなかったか。貴重品やペットを取りに戻って流されたというケースがかなりあることも、私が聞いた話から明らかになっている。その理由はどうであれ、多くの人が地震の直後に逃げないで亡くなっているという事実は、基礎的事実として確認されなくてはならない。

 

では、彼らはなぜ逃げなかったのか。くり返し述べてきたが、高台に自宅があったために、ここまでは津波がこないと過信して津波に巻き込まれた人が大勢いるのは事実だ。その意味では、津波の恐ろしさを周知徹底して、迅速な避難を呼びかけていくという作業はどこまでも必要だろう。

 

制度的な問題として第一にあげられるのは、気象庁が発表した大津波警報の過ちだ。気象庁が最初に発表した3メートルという数字が住民の意識のなかにインプットされてしまい、避難行動を遅らせていたことは私が集めた証言からも明らかだ。何人もの人が、3メートルの津波であれば6.5メートルの防潮堤でふせぐことができると考えて、避難しなかったと証言しているのだから。これは早急に改善されるべき点だが、これについては情報の課題の箇所で検討する。ここで取りあげるのは、津波の浸水予測図、いわゆるハザードマップの問題だ。

 

岩手県と大槌町が発表していたこのハザードマップが決定的に間違っていたこと、そのために多くの死者を出す一要因となったことは明らかだといわなくてはならない。間違いの第一は、今回の地震の予測をあまりに低く見積もっていたことであり、第二は、事実の誤認が多く含まれていることだたとえば大槌町のハザードマップでは、町方の避難指定場所であった江岸寺は明治と昭和の津波の浸水区域の外側に記載されている。しかし明治の大津波では、浸水が寺の庫裏の根板から1メートル20の高さに達していたことが過去の記録に明記されている。にもかかわらず、それが浸水区域外として記述されていたのはなぜなのか。間違っていることが明らかであるとすれば、誰が、あるいはいかなる部局が、なにを根拠として、このハザードマップを作成していたのかが解明されなくてはならない。それがおこなわれなかったなら、今後もおなじ過ちがくり返されるだろうからだ。

 

ハザードマップはなぜ間違っていたのか

・役所が指定した避難所が津波に襲われて大勢の人が亡くなったケースは、大槌町や釜石市だけでなく、陸前高田市でも宮城県三陸町でも見られている。であれば、役所の出していた想定が多くの箇所で間違っていたことは明らかなのであり、その想定がどのようにして作成され、役所はどれだけの情報をあらかじめ提示していたのか、その全過程が公表されることが不可欠だろう。情報をできるだけ正確に、かつ広く住民に提供するというのは、防災にかぎらず行政が銘記すべきことの第一であるのだから

 

車で逃げた人が多く、徒歩で逃げたのは一部にとどまったこと>

・このように、自宅や勤務場所の近くに避難ビルが適切に配置されていれば、徒歩での迅速な避難が可能になって、多くの人命が救われることができる。

 

情報の混乱や途絶があり、被害を拡大したこと

・被災後に出された情報の内容や伝達方法に関し、今回の震災は大きな課題があることを示した。まず気象庁の津波警報だが、沿岸部の住民の多くは、気象庁が最初に出した岩手県で3メートルという予測値だけを知り、避難行動の目安としていた。その意味で、気象庁の出したこの情報は、人びとの迅速な避難行動をうながすというより、むしろ逆にそれを阻害する要因として働いていたのは明らかだ。

 

被災後すぐに火災が発生したこと

・一方、火災に関しては別の問題がある。先の白澤さんの話にもあったように、車はすぐに発火するという問題だ。彼によれば、大槌町では火のついた車が水に流されて漂い、火をつけてまわったので町方全体が火の海に巻き込まれたというのだ。

 

勤務中に津波にさらわれた人が多かったこと

・大槌町では老朽化した役場の倒壊の危険性があったために、地震直後の役場の前の広場に机を並べて、災害対策会議を開こうとしていた。そこを津波が直撃したために、危険を察知して屋上に逃げようとした町長をはじめとする幹部職員の多くが水に流されて亡くなった。と同時に、役場のなかでは職員が避難もせずに勤務していたのであり、彼らもまた建物のなかで津波に呑まれてしまい、役場職員140名のうち40名もが尊い生命を失った。

 

<津波がまちを襲う>

・マグニチュード9.0というわが国の観測史上最大規模の巨大地震とそれが引き起こした津波は、東日本の太平洋岸に大きな被害をもたらした。なかでも岩手県の三陸沿岸中部に位置する大槌町は、今回の震災で最大の被害を出した市町村のひとつだ。

 

・この本は、その3月11日から1年半のあいだに、吉里吉里をはじめとする大槌町と釜石市の人びとが、どのように行動し、何を語り、何を考えてきたかを再現することを目的として書かれたものだ。

 

・宮城県沖地震が30年以内に99パーセントの確立で襲うことが予想されていたにもかかわらず、その自身の規模と津波の予測が大きく間違っていたこと。しかも、地震の直後に気象庁が出した警報さえもが間違っていたこと。避難所に十分なそなえもなく、支援の手もなかなか入らず、住民自身の相互扶助と集団行動だけが秩序の空白を埋めていたこと。そしてまちづくりの現場では、住民の生活の質を向上させたり利便性を高めたりしようという配慮は行政の側にはほとんどなく、あるのはあいかわらず縦割り意識であり、数字合わせと表面的な効率性のみを重視する行政特有のロジックであること。これらのことを告発することもまた、本書が書かれた理由のひとつだったのだ。

 

 

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